▼晩年、藤子・F・不二雄氏は、自身を次のように語っている。
子供の頃、僕は「のび太」でした。
並外れて不器用で遅筆な僕にとっては
よくこれだけ書き続けてこられたというか、
書き続けさせてもらえたというか、
これはやはり大変なことなのです。
皆さま、長い間ありがとうございました。
藤子・F・不二雄    
『藤子・F・不二雄の世界』(小学館)より

▲これだけを見ても、藤子F氏の謙虚な人柄が伺える。「のび太」を自分自身に投影させて、のび太と共に多くの冒険を体験する形で漫画を描いていたに違いない。繰り広げられる物語のなかでは、けして優等生ではない主人公が、毎回なんらかの形で失敗し、転びながらも、好奇心にまかせて冒険してゆくという小学生の充実した放課後が描かれている。
(ドラえもんを)僕はまだ書き尽くしたとは思っていない。(中略)「ドラえもん」の通った後は、もうペンペン草も生えないというくらいにあのジャンルを徹底的に描き尽くしてみたいと。
『トランヴェール H8年1月号』より

ライバルとは違った作風を作ってやろうという藤子F氏の姿勢がうかがえる。そこで確立されたものが、身近な出来損ないの主人公の、ごく普通の日常を舞台とした漫画なのである。小学生時代の彼の放課後には、大人になっても忘れられない素敵な時間が流れていたはず。

 
1933年(昭和 8年)12月1日 富山県高岡市生まれ。
1945年(昭和20年)9月 高岡市に移住してきた安孫子素雄と高岡市立定塚小学校5年2組で同級に。
1952年(昭和27年) 藤子不二雄A氏(安孫子氏)とともに二人で一人という異色な形の漫画家 藤子不二雄 が誕生する。
「天使の玉ちゃん」で漫画家デビュー/毎日小学生新聞
津田製菓へ入社するも、三日で退社。まんがに専念。
1953年(昭和28年) 工芸専門学校(現・高岡工芸高校)電気科、卒業。
最初で最後の書き下ろし単行本「UTOPIA 最後の世界大戦」が出版。
初の雑誌連載「四万年漂流」が連載。
1954年(昭和29年) 本格的な作家生活を目指し上京、墨田区両国に下宿。
暮には手塚先生が引っ越したあとの、トキワ荘14号室に入る。
寺田ヒロオ、坂本三郎、永田竹丸、森安なおやらと第1次新漫画党を結成。
1955年(昭和30年) 第1次新漫画党解散。寺田ヒロオ、鈴木伸一、つのだじろう、石森(現・石ノ森)章太郎、赤塚不二夫らと第2次新漫画党を結成。
1962年(昭和37年) 結婚する。
1963年(昭和38年) 「てぶくろてっちゃん」「すすめロボケット」で、第8回小学館漫画賞を受賞。
有限会社スタジオ・ゼロ発足。
1964年(昭和39年) スタジオ・ゼロにアニメ部と雑誌部をつくる。石森章太郎の応援で「オバケのQ太郎」(週刊少年サンデー)をかく。
1965年(昭和40年) テレビアニメ「オバケのQ太郎」がTBS系で放映開始。
1967年(昭和42年) 「パーマン」(週刊少年サンデー)連載。
テレビアニメ「パーマン」がTBS系で放映開始。
1970年(昭和45年) 「ドラえもん」(小学一〜四年生)連載。
スタジオ・ゼロ解散。
1973年(昭和48年) 「ドラえもん」で、日本漫画家協会優秀賞を受賞。
1984年(昭和59年) 藤子不二雄全集の「藤子不二雄ランド」シリーズが中央公論社から刊行開始。
1988年(平成元年)1月 ペンネームを藤子・F・不二雄と改める。
劇場用アニメ「のび太の日本誕生」東宝系劇場で公開。
「ドラえもん」執筆開始より20周年を迎える。
「ドラえもん」インドネシアにてテレビ放送開始。
1991年(平成3年) テレビアニメ「21エモン」テレビ朝日系で放映開始。
1992年(平成4年) 映画「未来の想いで」(森田芳光監督)東宝系劇場で公開。
テレビアニメ「ドラえもん」マレーシア・ロシア・ブラジル・シンガポールで放映開始。
1993年(平成5年) テレビアニメ「ポコニャン」NHK総合テレビで放映開始。
1994年(平成6年) 「ドラえもん」で第23回日本漫画家協会文部大臣賞受賞。
1996年(平成8年)9月23日 逝去。享年62歳。
1997年(平成9年) 手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。
※引用WEB (藤子・F・不二雄 プロフィ−ル)

 
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